池坊専好(三代)

  • 三十五世
  • 在位 元禄14年(1701)〜享保11年(1726)
  • 延宝8年(1680)生、享保19年(1734)没

歴代の家元には3人の専好が存在します。この三十五世専好は3代目の専好となります。当代の次期家元も専好を襲名しており、歴代で4代目の専好ということになります。

池坊専好(三代)関連年表

延宝8年(1680)生誕
元禄14年(1701)継目御礼のため江戸へ下向
正徳元年(1711)朱印改めのため江戸へ下向
正徳5年(1715)家康の百年忌法要で立花を献上
享保2年(1717)朱印改めのため江戸へ下向
享保19年(1734)逝去

江戸との関係

池坊のいけばなは京都で生まれ育ちました。今でも家元は京都にあります。しかし、この時代の政府は江戸にあり、文化の中心も次第に江戸へ移っていきます。そのような時代の中で、専好(三代)の代には池坊のいけばなは江戸でもかなり普及していたことが伺えます。

専好(三代)代の『永代門弟帳』(専養の頁参照)には江戸在住者の名前が多く見られます。専好(三代)は元禄14年(1701)には家元を継承したことの報告とお礼のため、正徳元年(1711)、享保2年(1717)には将軍の代替わりに伴う朱印改めのために江戸に下向しています。こうした機会を捉えて、江戸での入門者が増えたと考えられます。京都を地盤としながらも江戸でも池坊のいけばなは普及していたのです。

また、度々江戸へ足を運んだ結果、将軍家との関係も良好であったことが伺えます。正徳5年(1715)に京都の知恩院で行われた家康の百年忌法要では池坊が立花を献上しています。

生花の芽生え

池坊は立花の家としてその名が響いていました。しかし、この頃になると生花(「いけはな」、後に「 しょうか」と呼ばれるようになる)への関心が高まります。専好(三代)は、相伝形式を改定し、それまで伝授されて来た立花の伝である『大巻』『小巻』に、『生花巻』を新たに付け加えました。

正徳元年(1711)に刊行された『小叢花』には当時の生花が多く描かれています。この書は三十四世専養の弟子である神部政俊が著したもので、池坊でもこの頃には生花が生けられていたことがわかります。