戦国武将といけばな

池坊の花は戦国武将たちにも愛好されていたようです。そのいくつかを紹介します。

最も有名なのは前田亭の大砂物の逸話です。秀吉が前田利家の邸宅を訪れた際に(このような貴人の訪問を御成(おなり)と言います)、池坊専好が四間床(幅約7.2mの床)に大きな砂物(立花の一種)を立てたとされています。 その背景の四幅対の掛物に描かれた猿が、あたかも松の枝に留まっているかのように見えたそうで、この砂物は「池坊一代の出来物」と評判を取ったと伝えられています。

ただし、このことが書かれている『文禄三年前田亭御成記』の記述は、他の文献資料と御成の日付が異なっていたり、そもそも当時京都にあったはずの前田亭の場所が大阪とされていたりと、不審な点が多いそうで、 この逸話自体が史実であるかどうかははっきりしません。

けれどもこのような逸話が正式な文書として残るということは、似たようなことは実際にあったのではないでしょうか。少なくとも当時池坊の花が戦国武将の間にも強い印象を与えていたということは言えると思います。

また、各地の戦国武将も嗜みの一つとして立花を愛好したという記録が残っています。

石見(いわみ 現在の島根県西部)の戦国時代の武将である多胡辰敬(たごときたか)が残した家訓には次のような一節があります。

池ノ坊御前ノ花ヲサスナレハ一瓶タリトコレヤ学ハム

『多胡家家訓』

家の風として、池坊の花を学ぶことを推奨しているわけです。池坊の花が戦国武将の間でも評判になっていることがわかります。

ちなみに、この多胡辰敬家訓は次の一節でも有名です。

命ヲカロク名ヲヲモク思ヒテ數度ノ忠ヲイタス

『多胡家家訓』

場合によっては命よりも名を大切にした戦国武将の価値観をよく表しています。

薩摩(現在の鹿児島県)の戦国武将である上井覚(うわいかくけん)は諸芸に熱心で、天正9年(1582)に著した『伊勢守心得書(いせのかみこころえしょ』には、池坊の立花を学んだことが記されています。

また、江戸時代に入ってからですが、あの有名な伊達政宗も晩年には立花の名人と言われた二代専好と交流があったようです。来客があるので立花を立てて欲しいという内容の専好へ宛てた手紙が残っています。