池坊専純

  • 三十六世、三十八世
  • 在位 享保11年(1726)〜宝暦10年(1760)
  • 宝永3年(1706)生、安永3年(1774)没

専純が家元を務めた時期は、池坊は立花の家としての名声を確立していました。将軍の前で花を立てたり、お殿様が入門したりと、社会の上層部にまで池坊の名は響いていました。また、専純は二度家元を務めています。これは歴代で唯一です。跡を継いだ三十七世専意が若くして亡くなってしまったためです。

池坊専純関連年表

宝永3年(1706)生誕
享保11年(1726)継目御礼のため江戸に下向
享保13年(1728)六角堂本尊開帳
元文4年(1739)『池坊立花正統系図』を作成
寛保元年(1741)上野国厩橋藩主酒井忠恭が『生花巻』の相伝を受け、『永代門弟帳』に記される
延享3年(1746)将軍への立花上覧
寛延3年(1750)専純の作品集『生花』刊
宝暦10年(1760)専純隠退
明和2年(1765)専純、三十八世として再任
安永3年(1774)逝去

継目御礼

この頃になると、家元を継いだことの報告とお礼のために江戸で将軍にお目見えするということが慣習になっていました。専純も慣習通り江戸へ下ってます。

『けいせい亥刻鐘六角堂開帳』

享保13年(1728)に上演された狂言です。六角堂の本尊開帳が市井の話題となっていたことが窺い知れます。

立花上覧

延享3年(1746)に専純が朱印改のために江戸へ下向します。この機会に、立花3瓶と砂物1瓶を将軍徳川家重の上覧に供しました。上覧に供するとは偉い人にお見せするという意味です。その後、前将軍である吉宗(あの暴れん坊将軍です)もこの立花を見てとても気に入り、絵図にして献上するよう命じたそうです。

この江戸下向中に、専純は豊前国小倉藩主小笠原忠基から池坊家の系譜について尋ねられました。それに答えて専純は系譜を書き記します。その後、将軍の侍読を務める大学頭林信充に依頼し、池坊家の由来と系譜を記した『伝授次序』が成りました。

再任

跡を継いだ長男の三十七世専意が若くして亡くなってしまいます。次男、三男は養子に出されており、四男の専丸(後の三十九世専弘)はわずか5歳であったため、専純が三十八世として再任します。歴代の家元で唯一、二度家元を務めました。

池坊専純関連人物

岡西卜立(ぼくりゅう)

池坊の門弟で、代々幕府の御用立花師を勤めました。享保11年(1726)に専純が江戸に下向した際には最初にこの岡西卜立の家に入っています。元文元年(1736)に五代目が急死し、家が断絶しました。そこで池坊による立花御用も途絶えてしまいます。

酒井忠恭(ただずみ)

上野国(こうずけのくに・現在の群馬県)厩橋(くりやばし・現在の前橋)の藩主です。酒井家は譜代大名最古参の名門です。この忠恭は自ら池坊の花を嗜んだそうです。池坊の門弟として『永代門弟帳』に記されています。延享3年(1746)に専純が将軍へ立花を上覧に供した際には、立花は2,3日城内に置かれるため弱い草木は用いないようにとの助言を与えています。

林信充

幕府の学問所を統括する大学頭(だいがくのかみ)を務めています。延享3年(1746)に専純の求めに応じて、池坊家の由来と系譜を記した『伝授次序』を記しました。この時、京都へ戻る専純へ代々立花を継承してきたことを讃える七言絶句を贈っています。幕府の要職にある人物からも池坊が一目置かれていたことが窺えます。