- 三十世
- 天正7年(1579)没、天正17年(1589)没の二説がある
専応の花論を発展させ、後に大成する立花を準備しました。また、立花とは異なる生花(いけはな)についての伝も残しています。各地を旅し、いけばなを地方に伝えた事でも知られています。常陸国(茨城県)、小田原(神奈川県)、雲州(島根県)、厳島(広島県)等様々な場所に赴いたようです。当時の京都は戦乱で荒れており、地方に活路を見出したのではないかとも言われています。
池坊専栄関連年表
天文14年(1545) | 『大巻并座敷荘厳図』を相伝 |
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永禄11年(1568) | 「法眼」という僧位に叙される |
永禄10年(1576) | この年に相伝した伝書には「生花(いけはな)の事」という条項が見られる |
天正7年(1579) | 専栄没(天正17年との説も) |
『大巻并座敷荘厳図』
専栄の自筆本が残っています。内容は『専応口伝』を踏襲していますが、立花(りっか)と呼ばれる様式の骨法図を示し、7つの役枝と呼ばれる枝の名称を定めていることが特徴です。専応の代には流動的だった役枝を取捨選択した跡が見て取れます。
ちなみに、立花の役枝のことを「七九の道具」と呼ぶ事があります。現在立花は9つの役枝で構成されますが、この時代は役枝が7つだったことの名残がこの呼び方に表れています。
生花の事
立花は改まった場で立てられることが多く、そのために様々な約束事がありました。それに対し、さだまりたる枝葉もなし
として、規矩に囚われない当意即妙の花が生花(いけはな)であると述べています。当時から立花とは異なる生花が普及していた事がわかります。