- 三十一世
- 元和7年(1621)没 享年86歳
専栄の弟であると言われています。
「専好」を称する家元は歴代で3人存在します。そのため、この三十一世専好は「初代専好」と通称されます。また、当代の次期家元は四代目の専好を襲名していますから、将来は歴代4人目の「専好」という名の家元が誕生することになります。
初代専好が活躍した時代は安土桃山時代にあたり、豪華絢爛な文化が花開いた時期です。そのような時代に相応しく、専好もきらびやかな活躍を見せます。特に有名なのが、秀吉の御成の際に立てた花と、百瓶花会です。また、同時期に発展した茶の湯の有名人千利休とも交流があったと言われています。
2017年にはこの初代専好を主人公とした映画『花戦さ』が公開されました。
池坊専好(初代)関連年表
天正18年(1590) | 秀吉の毛利亭御成に際し花を立てる |
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文禄3年(1594) | 秀吉の前田亭御成に際し花を立てる |
慶長4年(1599) | 百瓶花会を開催 |
元和7年(1621) | 専好(初代)没 |
秀吉の御成と初代専好の花
御成(おなり)とは貴人が臣下の下へ来る事を言います。秀吉が毛利亭、前田亭に御成をした際に専好が花を立てたという記録がそれぞれ『天正十八年毛利亭御成記』『文禄三年前田亭御成記』に記されています。
天正18年9月18日(1590年10月16日)の毛利亭への御成の際には、上段の床には松を真にした立花、長床には鶏頭を真にした立花を専好が立てたそうです。立花というのはいけばなの一番古い様式です。
文禄3年9月26日(1594年11月8日)の前田亭への御成の際には、四間床(幅約7.2mの床の間)に大きな砂物と呼ばれる花を立てたそうです。松の枝を中心に構成されたこの花の背後には四幅の掛け軸がかかっていました。そしてそこに描かれた猿が、あたかも松の枝に止まって戯れているかのように見えたそうです。この花は「池之坊一代之出来物」として評判をとったそうです。その部分を引用しておきます。
同三之間四間床に四幅対猿かるの絵掛もの下に六尺ニ三尺の六亀の図砂之物鉢大松の真ヲ以なひき枝ニて掛物の猿かう弐拾疋有しを松ニとまりたるやうニさす也池之坊一代之出来物と風聞ありしなり
『文禄三年前田亭御成記』
百瓶華会
慶長4年9月16日(1599年11月3日)に京都の大雲院というお寺で盛大な花会が開催されました。この花会の様子は、翌年に専好の友人である東福寺の僧月渓聖澄(げっけいしょうちょう)によって書かれた『百瓶華序』に詳しく書かれています。
専好の弟子の中から100名を選抜して出瓶したそうです。100名の名前がこの『百瓶華序』に記されており、80名ほどが僧侶、その他が武士や町人と推測されるそうです。100人目には「池坊的子租帥専朝」とあり、これは後に専好を継ぐ二代専好のことだと言われています。
ちなみに、この花会の会場となった大雲院の場所は、現在の京都高島屋のあるあたりだそうです。京都高島屋は毎年11月に開催されている旧七夕会という池坊最大の花展の会場となっています。
利休との交流
利休が茶席に生けられた花を見て、池坊が生けた花だと見抜いたという話が、『江岑夏書(こうしんげがき)』という茶書に見られます。時代的にこの池坊は初代専好にあたると考えられています。
一易茶之湯ニ被参、中立て花入ニ花入り候ヘハ、被見て、此坊主ニ久しくあわぬと被申候、相伴きゝ候て、何事を易被申候やと存候處、茶過候て、勝手に池之坊居可申間、出候へと御申候、寄妙寄妙、花ニ而見知り被申候、
『江岑夏書』五月十二日の項