- 三十二世
- 元和(1615〜24)から寛永(1624〜45)にかけて活躍
- 万治元年(1658)没(万治二年没との説も)
前代の三十一世専好(初代)と区別するため、二代専好と通称されます。立花の大成者として池坊の歴史に不朽の名を刻んでいます。歴代でも屈指の名手とされ、現代においてもその作風が盛んに学ばれています。
寛永文化の担い手の一人とみなされ、時の後水尾天皇の立花の指導役を務めました。後水尾天皇を中心とする宮中のサロンで立花が流行し、指導者である専好の立てた立花は手本とするため絵図として写し取られ、現在でもその多くが残っています。そのような絵図がまとめられた『立花之次第九拾三瓶有』は重要文化財に指定されています。
池坊専好(二代)関連年表
寛永六年(1629年) | 宮中で立花会が盛んに開催される |
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寛永十八年(1641年) | 七夕の立花会が池坊で催される |
万治元年(1658) | 逝去 |
宮中立花会
後水尾天皇の下、宮中では度々立花会が開かれます。寛永元年(1624年)7月7日の宮中立花会を皮切りに、寛永六年(1629年)には正月から9月までの間に30回以上の立花会が催されたと言います。月に3回以上立花会が開催されていた計算になります。後水尾天皇の立花への熱中ぶりがよくわかりますし、それによって二代専好の腕が磨かれた事が想像されます。
このような立花の流行は後年には伝説となったようで、100年程後に書かれた『槐記』という本には次のような記述があります。
後水尾院は立花に於ては甚だ堪能なる事なり禁中の大立華と云事は此御代にこそありけれ主上を始め奉り諸卿諸家共此事に堪能ある人を択ばれて紫宸殿より底上南門まで双方に仮屋をうちて出家町人に限らずその事に秀たる者に皆立花させて並べられたり秀吉の大茶湯後の一壮観なり
『槐記』享保13年2月4日(1728年3月14日)/近衛家煕
あの有名な秀吉の北野大茶湯がひきあいに出されるほど、後世に大きく伝えられていたという事が伺えます。
七夕立花会と旧七夕会池坊全国華道展
現在毎年11月に開催されている「旧七夕会池坊全国華道展」は後水尾天皇が主催した七夕立花会を起源としています。もともとは七夕の日の恒例行事として催されていた花会ですが、明治時代に五節句が廃止されてからは後水尾天皇の忌日である9月11日に日を変え、その後花材豊富な秋でかつ農繁期をさけて11月に実施されるようになったという変遷があります。現在では11月に開催されている花展ですが、このような由来があるため「旧七夕会」という名前を冠しているのです。