池坊専養

  • 三十四世
  • 明暦元年(1655)生、正徳元年(1711)没

三十三世専存の子です。専養の活動期は立花の普及期に当たります。多くの花書が刊行され、また組織や伝授体制の整備も進みました。

池坊専養関連年表

明暦元年(1655)生誕
万治4年(1661)父専存(三十三世)逝去、二代専好(三十二世)の高弟4人が幼い専養を補佐する
寛文13年(1673)『立花図并砂物』刊
寛文13年(1673)『立花図并砂物』刊
延宝6年(1678)『永代門弟帳』の記帳が始まる
貞享元年(1684)『抛入花伝書』刊
元禄5年(1692)東大寺大仏開眼供養において、池坊が高さ12mにもなる巨大な立花を立てる
元禄10年(1697)『古代生花図巻』刊
正徳元年(1711)逝去

高弟間の争い

専養は7歳の時に父専存と死別しました。そのため、当初は二代専好の高弟4人が幼い専養を補佐する体制が取られました。その4人とは高田安立坊周玉、大住院以信、十一屋弥兵衛、十一屋太右衛門です。この内、大住院以信は独特の作風で名を馳せ、ついには高田安立坊周玉と対立するようになります。その後、大住院は池坊を去り独自の活動を企てますが、池坊の妨害により徐々に活躍の場を失ったそうです。

このように当時は池坊からは異端視された大住院ですが、現代ではその作風は認められ研究の対象となっていますし、家元から大住院以信の作品集も刊行されています。これをいい加減だと見る向きもあるかとは思いますが、僕は池坊の懐の深さを示す例として面白く見ています。

花書の刊行

立花の普及に伴い、様々な花書が刊行されます。主なものを紹介します。

『古今立花大全』十一屋太右衛門著 天和3年(1683)刊

最初の立花・砂物の手引書です。その後長く池坊の立花の基本的な参考書として現在に到るまで愛読されています。作者は明記されていないものの、十一屋太右衛門とするのが通説となっています。

『抛入花伝書』十一屋太右衛門著 貞享元年(1684)刊

立てる花である立花とは別の系統であるいける花(抛入花、いけはな)について述べた書です。立花の流行と並行して、いけはなも盛んでありそれに対して池坊も関心を持っていたことがわかります。『古今立花大全』と同じく、作者は明記されていないものの、十一屋太右衛門とするのが通説となっています。

『立花図并砂物』猪飼三枝編 寛文13年(1673)刊

家元を始めとして門弟の立花・砂物100瓶を収めた作品集です。

『古代生花図巻』毛利作右衛門著 元禄10年(1697)刊

『生花之次第』に対応する図集として著され、専養の校閲を受けています。池坊生花の芽生えを示すものとして、貴重な資料とされています。

巨大な立花

元禄5年(1692)に行われた東大寺の大仏様の開眼供養の際に、池坊が大仏の両脇に立花を立てた記録が残っています。立てたのは当時の高弟である猪飼三枝と藤掛似水です。その大きさは花瓶7尺5寸(約2m25cm)、真の高さ3丈2尺(約9m60cm)とあり、高さ約12mにも迫る巨大なものだったそうです。この花瓶は今でも大仏の前に据えられており、「藤掛似水門葉」の銘があるそうです。

永代門弟帳

延宝6年(1678)より「永代門弟帳」の記帳が始まります。これは門弟の人名録で、これにより全国の門弟を把握し組織化が進んだと考えれれます。この時の門弟帳から当時は北は秋田、南は琉球(現在の沖縄)まで門弟がいたことが知られます。茶人として有名な山田宗偏もこの最初の門弟帳に名が見られる一人です。

池坊専養関連人物

山田宗偏

当時の有名な茶人です。初期の門弟帳にその名が見られます。赤穂浪士の討ち入りに関して、変名した浪士が宗偏に弟子入りし、吉良邸の茶会の日程を聞きだして討ち入り日を決定したという逸話でも有名な人物です。